(C) TOKUDA Masaaki
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改訂履歴
このページは、前々から書いてみたかった「健聴者から考える手話と聾」がテー
マである。10年ぐらい手話の世界に足をつっこんできてわかったのは、「所詮、耳
が聞こえる人間には、本当の聾の世界はわからん。」ということ。わかったつもり
でも、まだまだ間違いを指摘されたり、誤解していることはある。手話サークルの
場は、いつになっても勉強の場だ。
ただ、そんな中でも、わかってきたことはある。全く手話を知らない人と話をして
いると、世間に広まっている誤解に気がつくことも多々ある。一つ一つは取るに足
らない誤解だけれども、それが積み重なって、聴覚障害者が住みづらい世の中を作っ
ているのではないか、とも思う。
また、自分は健聴者であるから、聾問題や手話には、聾者と比べて少し距離をおい
て話すこともできる。当事者には熱が入りすぎて、話がわからなくなってしまうこ
ともあると思うのだ。
ということで、ここでは、私が学んできたことを書き留めておく。ちょっと状況的
に、参考文献を紐解いている時間がないので、記憶と経験だけで書いてしまうがご
容赦願いたい。当然、間違いや勇み足もあるでしょう。指摘、文句、訂正等、よろ
しくお願いしたい。宛先はtokudama@rr.iij4u.or.jpまで。
言語である
答えは、Yes. しかし、説明は大変難しい。
その答えを知るためには、そもそも言語とは何であるかを知らなければならない。しかし、そんな
説明を長くしていると、読むのも大変なので、直感的な説明をする。
言語とは一体何だろう? 言語学という学問で、いくつかの条件を述べている。その中で代表的 な条件は次の2つである。
医学的にも、手話の失語症が発見されて、手話が言語である証拠として注目されている。
このようなわけで、研究者の間では、「手話が言語なのか?」という問いは愚問となりつつある。
手話の地位向上が、ろう者への差別をなくすことにつながるから
手話の世界に身をおくと、逆に、手話が言語であることを力説することが気になってくる。こ れには歴史的な事情がある。過去には、手話は言語であると認められず、弾圧された歴史があるの だ。
そもそも障害者自身が差別の対象だった。手話で話せば聴覚障害者であることがわかる。つい この前まで、公衆で手話を使うとジロジロ見られるようなことが多かった。最近では、ドラマの影 響か、そのような視線は少なくなっていると感じる。
手話の弾圧がもっとも激しかったのが、教育の現場である。詳しくはQ1-3を参照してもらいた い。口話教育の妨げとされた手話は、聾学校では禁止された。
本来、手話は聴覚を持たない聾者にとっては、もっとも自然に習得できる言語である。つまり 母国語である。母国語を使いたいのは、当然の欲求であり、自然でもある。過去には様々な抑圧が あったが、現在、聾者は手話を自分たちの言語として主張するようになった。手話が言語として認 められることは、聾者が社会で認められることを意味する。例えば、日本人が外国に行ったことを 考えてみよう。そこの国の店に日本語の看板があれば、我々日本人を客として扱ってくれるとわか る。手話が社会に認められるとはそういうことだ。そのためには、「手話が言語である」という旗 印が必要であり、これが強調されるのは必然である。
但し、これは、聾者が誰しも手話の言語性を説明できることを意味してはいない。例えば手話
の文法を明確に説明できる人はそれほどいない。それはそうだ。研究レベルでもあまりわかってい
ないのだから。
それに、日本人でも日本語の文法をよく説明できる人はいるだろうか? 同じことである。
教師が手話を知らないので教えられないのと、親から教えることを望まれないから
あまり教えない。なぜなら、先生が手話を知らないからだ。しかし、状況は変わりつつあるの で、今後は手話を取り入れる方向にはある。学校にもよるが。
「我が子を人並みに育てたい」と思うのが親である。(中には人並み以上に育てたいという教
育熱心な親もいる。)特に障害を持つ子供の親では、特にこの意識が強いのではないだろうか。そ
れは過去も現在もそれほど違わないように思うし、それは人間として自然な感覚だろう。
ただ「人並み」というのが問題である。医学的に耳が聞こえないのは仕方ない。そこで、「人並み」
となるために、聾児(聴覚障害を持つ子供)は、口の動きから相手の話を読みとり、発声で答えるこ
とを徹底的に教育された。これを口話教育という。しかし、世間一般に読唇術が特殊技能であるこ
とが示すとおり、口話は大変難しい。そもそも原点である言葉を教えるのに、特殊技能を駆使しな
ければならないのだから、子供にしてみれば拷問のようなもの。しかも、指導する先生は耳が聞こ
えるので、この苦しみを体験として理解していないのだ。
このような状況下で、手話は口話を阻害するものとして弾圧された。手話は明らかに口話より覚え
やすい。だから、口話を覚えようとしなくなる。先生にとっては邪魔だった。また、手話を覚える
ことは、耳の聞こえる親とは違う言語で育つことを意味する。子供と話が通じなることは親にとっ
ても脅威だった。そのような結果、聾学校では手を縛るようなことも行われ、手話を使うことは禁
止されていた。
その結果、口話も手話も十分に身に付かない子供がかなり出てきた。これは手話はもちろん、日本
語もうまく使えないということである。教育としてはまさに失敗と言われても仕方ないだろう。そ
のような教育を受けてきた子供たちのことを考えてのことか、あまり公には言われていないが、そ
の結果は聾学校からの大学進学率が異様に低いことからも明らかである。これは入学試験に聴覚が
絡むことの問題以前に、基本的な基礎学力が得られなかったことが大きいと思われる。口話に時間
をかけすぎたのだ。
現在、流れは少しずつ変わってきている。相変わらず聾学校では口話教育が広く行われている
が、手話を全体禁止するような風潮は薄らいできている。中には積極的に用いる先生もいる。聴覚
障害を持つ先生も誕生している。しかし、大部分の先生は手話はあまりよくわからない。覚えよう
と思っても、そう簡単に身に付くものでもない。でも、雰囲気が変わりつつあるのは確かなようだ。
その一方で、社会に出れば手話はほとんど通じない。聾学校は、手話を取り入れつつも「社会へ旅
立つ教え子に修得させるべきものは、やはり口話なのではないか」と悩み続けている。
国ごとに違う
アメリカ手話と日本手話を比較すると単語の表現方法は全然違う。文法は、研究レベルだが、 異なるという見解が一般的だ。しかし、韓国手話と日本手話のように単語表現がかなり類似してい ることもある。
そもそも手話が世界共通のはずがない。なぜ、海の向こうとこちらで発生
した言語が等しくなるはずがあるのだろうか? 日本語と英語は全く違うではないか。
さらに手話は今のところ会話言語としての特徴を持つ。目と目で話せる範囲でしか影響力がないの
だ。これは、人の交流がないところでは、手話の互換性が少なくなることを意味する。極端な話、
聾学校ごとに手話は違うという状況さえあり得る。少なくとも、都道府県レベルでは、かなり異な
る手話が見受けられる。但し、それは単語レベルの話。文法レベルでは、研究があまり進んでいな
いので断言はできないが、かなり類似しているというのが一般的な見方だ。だから、単語表現の違
いさえおさえておけば、他の地域の聾者でも話はしやすいようだ。
現在、NHKなどテレビで手話を見る機会が多い。特にNHKの手話ニュースは使われる語彙も多く、お
そらくこれが日本標準手話を形成する一因になるだろうと思われる。日本の手話は変わりつつある
のだ。
最後に韓国手話と日本手話の類似性について、数年前の日本手話学会で報告された、 うろ覚えの情報を提供しておきたい。(正確なことが知りたい人は、その時の報告集を買ってくださ い。)韓国と日本なら、真っ先に思いつくのが戦争の影響だが、手話についてはもう少し穏やかな話 で、似ている原因は韓国の聾学校から日本へ研修生を招いたことにあるらしい。それは天皇の影響 力を示す、つまり天皇は国民のために尽力する、福祉にも力を入れている、という活動の一つであっ たようだ。聾学校同士の交流なら口話教育になるのではないかとも思うのだが、やはり自然に手話 が広まっていったということなのだろう。現在ではその名残で韓国と日本の手話がかなり類似して いることが報告されている。
むしろ、手話を話す聴覚障害者は少ない
誰でもというわけではない。話せない人もいる。実際は、話せない人の方が多いのではないか と言われている。
厚生省の1996年の調査に
よれば、聴覚言語障害者の総数は35万人。その中でも手話ができるのは、4万3000人とのことである。
潜在的な人を含めれば、もっと数は多そうだが、20万人を越えることはなさそうだ。
聴覚障害といっても、手話を覚えているかどうかはその障害になった時期が大きく関係している。
つまり、手話を覚えられるときに失聴したかどうかだ。子供の頃に失聴すれば、母国語のように覚
える可能性は高い。逆に、年をとってからでは頭も固くなり、覚えられない。このような状況から、
子供の頃に失聴し手話を修得した人を聾者、大人になってから失聴した人を中途失聴者と呼ぶこと
がある。
一般には違う
ある意味、回答が難しい質問だ。というのも、手話にもいくつかの種類があり、日本語と似て
いる手話も存在するからだ。研究者は、日本語に似ている手話を日本語対応手話、そうでない手話
を日本手話と呼んでいる。(但し、呼称は研究者の流儀により様々である。)
Q1-1で述べたような手話は、日本手話のことを指している。これは、聾者の
コミュニティから自然発生した手話であり、文法も日本語とは異なる。(部分的には類似点も指摘
されているが。) 一方、日本語対応手話は聾学校で日本語を教えたり、中途失聴者が使うために日
本語に依存した手話で、文法は日本語、表現が手話というものである。つまり、日本語の語順で手
話単語を手で表現するのである。これは日本手話を覚えられない中途失聴者にとって、手軽に使え
るという利点がある。
まとめると「日本手話は日本語とは違う。但し、日本語対応手話というものがあり、これは言語学
的には日本語と同じと言える。」ということになる。
さて、ある人が手話で話している。この人の手話が日本手話か、日本語対応手話かを判別する
方法はあるだろうか? 客観的な基準は存在しない。経験的に、手話と日本語を理解する人は判別を
つけられる。しかし、主観的なので時には判断が分かれることもある。言語学的には、これらの手
話は分類できるものだと言うが、実際は混在していることが多い。ある表現は日本手話的だが普段
は日本語対応手話である人は、よく見かける。私もそんなものだ。
研究目的でもなければ、無理に判別する必要もない。聾者が手話だと思って使っている以上、それ
は誰がなんと言おうと手話である。そして、その手話はたいていは日本語とは別物である。
嘘。但し、誤解する原因が1つ考えられる。
健聴者が手話を作ったという証拠は今のところ発見されていない。そしてこれからも発見され
ないであろう。
エスペラント語のような人工言語を除いて、あらゆる言語は自然に発生する。誰かが作るものでは
ない。例えば、日本語は誰かが作ったのだろうか? 紫式部? それとも縄文人か? いや、そういう考
え方は正しくない。日本に住んでいる人が言葉を発しているうちに現在の日本語が自然と作られて
きたと考えるべきだろう。その過程には縄文人や紫式部もたずさわっているし、もちろん日本語を
使うあなたも関与している。
手話も人工言語ではない。聾者が自然と作り上げ来た言葉である。
健聴者が作ったという誤解はおそらく指文字にある。日本で使われている指文字は、明治時代、 大阪市立聾学校の大曽根源助が1929(昭和4)年アメリカへの視察をし、その時に見た指文字を参考 「大曽根式指文字」を考案している。指文字は日本語の五十音にあたる原子的な表現法である。こ れは手話の一部であり、手話そのものではない。